現:No.001
著者:月夜見幾望


「あっはっは! まさか数学のテスト中に開始早々居眠りを始めるやつなんて初めてみたぜ。彩桜(ここ)の理系の数学は割と難しいことで有名なのに大した度胸だ。これは朝7時半からの追試組の仲間入り確定だな!」
「……お前だって寝てたじゃねえか」

結局、夢から覚めたときにはもうテスト時間は残り5分を切っており、目の前には白紙の答案用紙が僕をせせら笑っていた。
青磁(せいじ)の言うとおり、彩桜理系コースの数学の問題は難関国立大学レベルの問題の類似問題を随所に配置してあるため、時間めいっぱい使っても解けきれないことがあるほど難易度が高い。
といっても、理不尽な難易度ではなく、授業の復習をこなして内容をしっかり理解すれば解けるように問題文に工夫(ヒント)が施されている。生徒たちは前日徹夜する勢いで猛勉強に励み(中には、目の下にくまができている奴も見かけるが)、“合格点”以下の点数を取った者に課される追試をなんとか免れようと必死に努力する。
ちなみに合格点の基準は100点満点中の50点。49点以下の者はばっさり斬られ、いかなる理由があろうと追試コースへ連行される。めったにはないが、たまに学年平均点が合格点を下回ることがあり、その場合は学年の半数以上が問答無用で追試を受けさせられる。
連続で追試を受けると、不思議なことに“追試仲間”という深い絆で結ばれた友達の輪が広がることがある。ただ、一度友情(と言っていいのか?)ができてしまうと、運よく追試を逃れたときには「あいつ、今回逃げやがったのか。許せねえ……」と報復を受けることがあるため、その日の夜道には注意しなければならない。
僕の成績状況? これだけ詳しく実態を語れることから、ある程度は推理できるんじゃないだろうか。
それに対して、青磁の成績はと言うと……、

「俺は問題すべて解き終わったから寝てただけだぜ。どんな複雑な計算問題だろうと『俺』にかかれば一瞬さ!」

そう、青磁は数学が得意だ。
いや、正確に言うなら、『あらゆる計算問題を一瞬にして解ける』ほどの、とてつもない計算能力を持っている。





───通称、サヴァン症候群。





自閉症などの発達障害をもつ人々の中に、ごくまれに並外れた芸術的才能や計算能力などをもつ人々がいるが、彼もそのうちの一人だ。
サヴァン症候群について少し説明しておこう。医学や発達障害の項目にも触れるため少し難しい話になるが、それは勘弁してほしい。なんせ、図書室から借りてきた文献を参考にしているからね。
サヴァン症候群自体の説明に入る前に、まず有名な“サヴァン”たちの例を見てほしい。



1. レスリー・レムケ……卓越した演奏家。14歳のとき、彼は数時間前にテレビで初めて聞いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を、ためらうことなく完璧に弾きこなしてしまった。レムケはそれまでピアノのレッスンを受けたことがなかったし、その後も一度も受けていない。


2. キム・ピーク……7600冊以上の本を丸暗記していて、米国の都市や町を繋ぐ幹線道路を空で言える。すべての都市の市外局番、郵便番号、その都市をカバーするテレビ局や電話会社名も記憶している。また、どんなに古い曲の題名も言いあてられる。しかも作曲された年月日、初演日、作曲者の生誕地に誕生日、死亡した日まで知っている。


3. トマス・フラー……電光石火のスピードで計算できる数学のサヴァン。フラーは数を数えるのがやっとで複雑な計算はできなかったが、あるとき70年と17日半生きた人は全部で何秒生きたことになるかと質問された。すると1分半後には、正確に「22億1050万800秒」と答えたという。しかも17回のうるう年までちゃんと計算されていた。


4. トム・ビートン……最も有名なサヴァンの一人で、存命中「世界の8番目の不思議」と言われた。トムの話せる単語は100語に満たなかったものの、7000曲以上をピアノで流麗に演奏した。


5. アロンゾ・クレモンズ……彫刻のサヴァンの一人。彼は動物が素早く走り去っていく姿をテレビで見ただけで、20分以内にその動物の完璧なレプリカを作ってしまう。ワックスを使った彼の彫刻は、毛の一本、筋肉の一筋にいたる細部まで、また全体のプロポーションも正確無比に再現している。


6.エレン……音楽のサヴァンで目が見えないが、深い森でもまったく知らない場所でもぶつからずに歩ける。また点字の時計に触れることなく、現在の時刻を完璧に言いあてる。



こうしたサヴァン症候群のずば抜けた技能の大半は右脳型の活動に限定される。おもに直観的で抽象的な思考によらない芸術、視覚、運動に関する活動だ。例えば、音楽、美術、数学、ある種の計算能力、手先の器用さや空間的能力を組み合わせた技能などがある。
対照的に、左半球の技能はより規則的で、論理的かつ象徴的だ。言語や会話の能力などがそれに当たる。
サヴァンたちがなぜ、そのような能力を得たのかを説明する包括的な説はまだないが、最も有力な説は、左脳に障害があるため右脳がその喪失部分を補おうとしている、というものだ。
1980年代後半には、ハーバード大学の神経学者ゲシュウィンドとガラバーダが、左脳の障害の原因と、サヴァンが男性に多い理由を説明した。
二人は著書『Cerebral Lateralization(大脳の一側優位化)』で、脳の左半球は通常右半球よりも遅れて発達するため、出生前の(多くは有害な)影響を受ける期間が右半球に比べて長くなると指摘している。
男の胎児では、体内のテストステロンが有害な影響を及ぼすことがあり、左半球の発達を遅らせたり、神経機能に障害を生じさせたりする。その結果、男性ではそれを補おうと右半球が肥大し、優位になることがしばしばある。サヴァン症候群だけでなく、読字障害、言語遅延、吃音、多動、自閉症など他の中枢神経機能障害も、女性より男性が多い。


長い解説になってしまったが、青磁も例外ではなく、幼い頃は発達障害で目があまり見えなかった。
現在は、普段の生活に支障が出ない程度には回復しているけど、本人の希望で、しばしば激しい運動を要求される体育の授業では見学していることが多い。
ちなみに、彼らサヴァンが言葉を覚えたり人々と接したり、身の回りのことができるようになったために、それと引き換えに類まれな才能を失ってしまうというケースはほとんどない。むしろそうした才能のおかげで、彼らが社会生活に適応できるようになることのほうが圧倒的だ。
青磁も、今では普通の学生との違いはない。
偏見を持たず、彼を普通の友達として接する生徒も増えてきた。中でも、特に中が良いのがこの僕と、それから……、

「なに、本読みながらぶつぶつ呟いてんのよ、桔梗(ききょう)。次、日本史のテストなのに最後の悪あがきしなくていいの?」

いきなり背後から声をかけてきて本を奪ったのは、長い黒髪の女生徒。
僕たち二人にとってはお馴染みのインディアンレッドの眼鏡の奥に収まった瞳が、さも楽しそうに輝いている。

「なんだ、そっちは余裕そうだな茜(あかね)。日本史は範囲広いのに大丈夫なのか?」
「愚問ね。この天才記憶少女、茜様の知識の前では日本史なんて敵ではないわ!」

クラス中に聞こえるような大声で意味不明な宣言をする茜。
しかし、クラスの連中は特に気にした様子もない。
それもそのはず。彼女はクラスの誰もが認めるほど、暗記術に長けているからだ。
歴史や英単語など、暗記が重要なポジションを占める教科の点数はほぼ毎回満点。さらには、全クラスメイトの電話番号まで完璧に暗記しているというのだから驚きだ。
ここで勘違いしないでもらいたいのは、彼女は青磁のように特別な才能を持つサヴァンではなく、ごく普通の一般生徒という点。
ひたむきな努力だけで、その膨大な知識を所有している彼女のことを、クラスメイトたちは“天才記憶少女”とか“暗記マスター”、あるいは“歩く百科事典”などと呼ぶ。ついでに付け加えると、僕を入れてこの三人が常に一緒につるんでいる悪友ということになる。

「ちぇっ、茜はこういう時いいよな〜。俺なんて明け方まで勉強しても不安なのに」
「あら、青磁は数学でいつも点稼いでいるからいいじゃない。一番残念なのはこいつよ」

そう言って、僕のほうを親指で示す茜。
へいへい、どうせ僕は全教科平均取れるか取れないかくらいの、なんの才能もない凡人ですよ。一応「桔梗は妄想癖は凄いよね〜」という評価を貰っているが、そんなの嬉しくもなんともない。
いいさ。僕は至って普通に学生生活を過ごすんだ。
成績なんて、その中のほんの一部分。瑣末な問題だね。

「その割には、しょっちゅう補習プリント貰ってるよな」
「追試受けた回数は、正の字いくつになるかしらね」
「わぁぁあああ!! それは言わないでぇぇええええ!!!」

二人からの冷酷な言葉が突き刺さる。
これは……これは、僕に現実を見ろ、とでも言いたいのか!
そうこうしているうちに、次の授業のチャイムが鳴り響いた。

「やば、席に戻らないと。じゃあ、がんばってね、お二人さん。このテストが終わったら購買に何か買いに行きましょ♪」
「うるせー。今度こそはお前の点に追いついてやるからな。覚悟しておけよ!」
「はあ……」

そんな二人のやりとりを横目で見ながら、ため息をつく。
そう、この慌ただしい学園生活が僕の現実。とりあえず、今度は寝ないように注意しないと。
問題用紙と回答用紙が回ってきて、名簿番号と赤朽葉桔梗(あかくちば ききょう)と名前を書き込む。

「それでは、始めてください」

僕は、一度大きく深呼吸すると問題にとりかかった。



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